変人と孤独

「静かなのが好きなヘムレンさん」 (「ムーミン谷の仲間たち」収録)

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後期ムーミン童話は、はっきりいって変人の宝庫だ。 出てくる登場人物のほとんどが変人、変わり者。 かれらは世間となんらかのトラブルをかかえている。 そしてたいていは、正しく理解してもらえない。

たとえば、「ムーミン谷の仲間たち」に登場する “静かなのが好きなヘムレンさん”。彼の仕事は遊園地の キップ切り係だった。ヤンソンは「こんな仕事を一生 やらなければならないとしたら、誰だっていやになってしまいますよね」と ナレーションを入れている。まったくそのとおり。でも彼はこの仕事を だまって黙々とこなした。そして、退職したあとにはじめて 本当の幸せをみつける。

それは「沈黙の園」と彼が名づけた、静かな自分だけの庭園を もらい受け、そこで暮らすことだった。 彼はとにかく音の出るものが全部きらいで、静かな所が好きなのだ。 けれどもこの幸せは他人には理解されない。 彼の様子を見にきた親戚のおじさんは、ヘムレンさんの家の前で 彼の捨てたオルガンをみつける。これは音を出すので、ヘムレンさんに とってはいらない物だった。物語の最後で、おじさんは 「沈黙の園」の中を覗いてみて、こう言う。

「あんまり楽しそうにやっている音はしないぞ。 でもほうっておくことにしよう。人はだれだって自分で 好きにやってるときが一番楽しいんだからな。 あの気の毒なおいは、もともとすこし変わり者だったよ

おじさんはヘムレンさんの捨てたオルガンをもって帰りました。 この人はとても音楽が好きだったのです。

これで物語は終わり。とくに悪いことは何も起きていない。 ヘムレンさんは幸福だし、おじさんも悪い人じゃない。 それでも、なぜかもの悲しい気持ちが残る。なぜだろうか。 おじさんは親切ではあるが、ヘムレンさんのことを「気の毒な変わり者」と 思っているのだ。そしてそのおじさんもまた、ヘムレンさんの捨てたオルガンを もって帰っていくのである。何かやるせないものが残る。

それはこのお話で、ヘムレンさんが誰にも理解されない存在として 描かれているからだ。いや、彼のことを慕ってくれる子供たちは沢山いる。 だけど連中にしたってヘムレンさんを完全に理解してくれているわけではない。 彼はガキんちょがちょくちょく「沈黙の園」に入ってきて騒ぐのに 腹を立てる (ヘムレンさんは彼らに入ってこられるのが嫌なんじゃなく、 彼らに音を出されるのが嫌なのだ)。 それでも最後のほうでは「まあたまにちょっとうるさくするくらいならいいだろう、 たまには音がほしいときだってあるものな」と思って許してあげることにする。

あなたにとってヘムレンさんは人生の勝者だろうか、敗者だろうか? まあ、人生に勝敗があるという考え方自体そもそもくだらないが、 ぼくは彼の人生をうらやましく感じる。それでもこの物語にやるせなさを 感じるのは、結局のところ彼は最後まで孤独だからだ (ちなみにムーミンでは「孤独」などという固い 言葉は使われず、「ひとりであること」と書かれていることが多い)。 誰からも理解されず、ひとりで自分の幸せをみつけるヘムレンさん。 でも、実は彼のおじさんだって状況は同じだ。 基本的に人というのは理解されないものだし、幸福は個人的なもので、 他人と完全に共有できるわけではない。 人生ってのはそういうもの -- ヤンソンはこれを、 あっけなく描き出してしまっているように見える。

孤独が不安でしょうがない人 (ようするに「友達は多ければ多いほどいい」という人) にとっては、この物語は救いようのないものに感じられると思う。 でも、人はだれでも「ひとりであること」を受け入れなければいけない、 そして本当はそれはすばらしいものなのだ -- ムーミンにかぎらず、ヤンソン作品にはこうした主題がくり返し現れる。 ぼくはこれを、ヤンソンのエールだととらえている。 とりわけ後期ムーミン作品では変な奴が沢山でてきて、 基本的にみんな孤独だ。ぼくがムーミンの登場人物に 共感するのは、きっとぼく自身も変人であり、 おそらく (ある程度は) 孤独な人間だからだと思う。


Last Modified: Mon Dec 30 02:12:22 EST 2002 (12/30, 16:12 JST)

Yusuke Shinyama